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かみ 髪
麦僊は佐渡のひと。本名金二。始め鈴木松年、後に竹内栖鳳に師事。明治41年の第2回文展「罰」などで早くから画壇の注目を浴び、「海女」「大原女」「三人の舞妓」などヨーロッパ近代絵画をとり入れた話題作を文展に発表したが、より自由な制作の場を求めて、大正7年に、小野竹喬、村上華岳らと国画創作協会を設立、近代日本画史に特筆される新しい日本画運動をおこした。昭和3年の解散の後は帝展に復帰、山南塾を主宰するなど、後進の指導にも尽くしたが、完成されたかに見えた画業の一層の展開を見ずに惜しまれて急逝した。この作品は、手の表情に女性らしさを表現したもので、栖鳳は、着物の配色や鏡台の配置、人物の姿勢など、「用意周到の痕見えて間然すべき処がない」と評している。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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