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にがつのころ 二月の頃
華岳は大阪のひと。はじめ武田震一といったが、神戸の村上家の養子となった。美工を経て明治44年絵専を卒業し、研究科に進むと同時に竹内栖鳳に師事。早くから歌舞伎や文楽、浮世絵などに興味を示し、仏教美術にも深く傾倒した。在学中明治41年第2回文展に「驢馬に夏草」を出品するが、同展への不満から土田麦僊、榊原紫峰らとともに大正7年国画創作協会を結成、活発に活動を展開した。昭和3年の同会解散後は画壇を離れ、神戸に隠棲して山水画・仏画に孤高の制作を続けた。この作品は当初「早春」と名付けられており、第16回新古美術品展で3等賞を受賞、第5回文展出品時に現在の名称に改められたものである。京都吉田山から銀閣寺方面の眺望を描いた、冷気の漂う田園風景である。2学年下の小林和作の伝えるところでは遠景の山の表現にとりわけ苦心したという。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
ドランとは?【 作家名 】 フランス、シャトゥーに生まれる。アカデミー・カリエールやアカデミー・ジュリアンで学ぶ。マティスとは旧知の間柄。1900年ヴラマンクと知り合い共同のアトリエで制作する。1905年夏のマティスとの共同製作を経て、その秋、フォーヴィスムの名称がおこったさとれるサロン・ドトンヌに出品する。1907年ピカソ、ブラックらとの交流を通じて、キュビスムや黒人彫刻の影響を受ける。その後セザンヌの作風に近づくが、1911年以降はルネサンスの影響を受ける。また、1920年ごろからは、ドラクロワのロマン主義とコロー、クールベらの写実主義を折衷した、新古典主義風の独自の作風を確立する。(「パリ・日本・メキシコ 埼玉県立近代美術館所蔵作品による」図録 1992年) |
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