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にがつのころ 二月の頃
華岳は大阪のひと。はじめ武田震一といったが、神戸の村上家の養子となった。美工を経て明治44年絵専を卒業し、研究科に進むと同時に竹内栖鳳に師事。早くから歌舞伎や文楽、浮世絵などに興味を示し、仏教美術にも深く傾倒した。在学中明治41年第2回文展に「驢馬に夏草」を出品するが、同展への不満から土田麦僊、榊原紫峰らとともに大正7年国画創作協会を結成、活発に活動を展開した。昭和3年の同会解散後は画壇を離れ、神戸に隠棲して山水画・仏画に孤高の制作を続けた。この作品は当初「早春」と名付けられており、第16回新古美術品展で3等賞を受賞、第5回文展出品時に現在の名称に改められたものである。京都吉田山から銀閣寺方面の眺望を描いた、冷気の漂う田園風景である。2学年下の小林和作の伝えるところでは遠景の山の表現にとりわけ苦心したという。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
横山大観とは?【 作家名 】 1868年、常陸国(ひたちのくに、現・茨城県)に生まれる。1958年没する。幼名秀蔵、秀松、のちに秀麿。旧姓は酒井。結城正明に学んだ後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に1期生として入学。橋本雅邦、岡倉天心の指導を受ける。卒業後、東京美術学校助教授となるが、天心に殉じて辞職し、日本美術院の創立に参加。正員、評議員となる。美術院の茨城県五浦への移転を経て、文展(文部省美術展覧会)が開催されると審査員もつとめた。天心の没後は、文展を離れ、日本美術院を再興。一貫して指導的立場にあった。帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任し、第1回文化勲章を受章。近代の日本画を代表する画家といえる。 |
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