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がいしゅつまえ 外出前
この作品は夏の外出前に身支度をする女性を描いたもので、絵専卒業作品である。鏡台と顔を見せずに身づくろいをする女性の取り合わせは、彼の美工卒業時に土田麦僊が発表した絵専の卒業作品「髪」を強く意識したものといえる。黒髪と白い二の腕のなまめかしい表現は作者の早熟な感性をうかがわせるが、縦構図を生かした幾何学的な構成は、画面を縦に3分割した中央部分に要所をまとめて、うまく主題である女性に視点を導く工夫をしている。繊細な描写力や緊密な構成力を持ちながら卒業後目立った活動の痕跡がなく、画壇での発表が見られないのは不思議でもあり、残念な画家である。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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