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がいしゅつまえ 外出前
この作品は夏の外出前に身支度をする女性を描いたもので、絵専卒業作品である。鏡台と顔を見せずに身づくろいをする女性の取り合わせは、彼の美工卒業時に土田麦僊が発表した絵専の卒業作品「髪」を強く意識したものといえる。黒髪と白い二の腕のなまめかしい表現は作者の早熟な感性をうかがわせるが、縦構図を生かした幾何学的な構成は、画面を縦に3分割した中央部分に要所をまとめて、うまく主題である女性に視点を導く工夫をしている。繊細な描写力や緊密な構成力を持ちながら卒業後目立った活動の痕跡がなく、画壇での発表が見られないのは不思議でもあり、残念な画家である。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
パスキンとは?【 作家名 】 1885年ブルガリアに生まれる。1930年没する。本名はユリウス・ピンカス。父はユダヤ系スペイン人、母はイタリア人。ウィーンで絵を学んだ後、1904年、ミュンヘンの諷刺雑誌『ジンプリツィスムス』の専属契約画家となり、この時から本名のピンカスではなくパスキンと名乗る。1905年パリに行き、エコール・ド・パリの仲間入りをする。1914年から20年まではアメリカで暮らし、この時にアメリカ国籍を得る。その後ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、キューバ、アルジェリア、イタリア、スペイン等、各地を放浪した。1930年、パリのジョルジュ・プティ画廊での個展前夜に自殺。淡彩と無駄のない線によって描かれた彼独特の女性像は、ゆらめくような透明感を持っており、エロチックな憂愁を帯びている。退廃的なその作品には、新しい発見や革新性は見当らないが、彼の鋭く神経質なまでの危うい感受性が表現されている。 |
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