データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
はいせん 廃船
この作品は先の「港」と同じく神戸メリケン波止場の風景と思われ、初期作品ではこうした近代的風景がモチーフにとられることが多かった。また、昭和11年文展鑑査展に出品された「廃船」と本図は同様の着想から生まれたものと思われる。後には桜島や磐梯山などをモチーフに、自然の詩情を雄大な構図に描く山岳風景に真骨頂を示した。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作品
いまクリックまたは、検索したキーワードの解説
西山翠嶂とは?【 作家名 】 1879年京都市に生まれる。本名卯三郎。竹内栖鳳の門に入り、内国観業博覧会、新古美術品展、全国絵画共進会などに出品。1899年(明治32)京都市立美術工芸学校を卒業。1907年第1回文展に入選し、以後連続出品。1916年(大正5)第10回文展で〈未笄の女〉が、第11回展で〈短夜〉、第12回展で〈落梅〉が特選となる。1919年の第1回帝展では審査員をつとめた。1902年から京都市立美術工芸学校、19年から京都市立絵画専門学校で教鞭をとり、20年には画塾青甲社を創立。1933年(昭和8)から36年まで、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校の校長をつとめるなど、次の世代の作家の育成にも力をそそいだ。1929年帝国美術院会員、37年帝室技芸員となり、57年には文化勲章を受賞した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||