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にしざわ てきほ 西沢笛畝
1889年東京都に生まれる。旧姓石川、本名昂一。1913年(大正2)に荒木寛畝に入門し、1915年の寛畝没後は、荒木十畝に師事する。同年、第9回文展に初入選。西沢家に入婿して、本格的な制作活動を始めた。以後、官展を主な活躍の場とし、1924年の第5回帝展、28年(昭和3)の第9回展では推薦出品、翌29年の第10回展からは無鑑査となり、第15回展で審査員をつとめた。また戦後は、読画会代表理事もつとめた。荒木派の花鳥画の作風を受け継ぎながら、正確な自然観察にもとづく新しい花鳥画の創造をすすめた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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