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いしかわ かんがん 石川寒巌
1890年栃木県に生まれる。本名寅寿。1911年(明治44)上京し、大平洋画会研究所に通う。また佐竹永邨に就いて南画を学んだ。翌年肺炎にかかり帰郷、郷里で那須雲照寺の釈戒光について参禅、導師より寒巌の道号を与えられる。1920年(大正9)再上京し小室翠雲に師事、22年の第2回日本南画院に入選、好評を得る。ついで第4回展で同人に推挙され、以来日本南画院展を舞台に活躍した。また、小堀鞆音、小杉放菴ら栃木県出身の在京日本画家による華厳社の結成に参加する一方、小杉放菴の提唱で始まった公田連太郎、山中蘭径、鹿島龍蔵、木村荘八、岡本一平、森田恒友らの中国思想研究会「老荘会」にも参加する。粉本主義を排して、郷里の風景や、東京近郊に残る武蔵野のおもかげを描くという写実による南画を実践し、新南画の領袖として、また異端の南画家として、日本南画院のみならず、帝展出品作家にまで影響を与えた。後期は、琳派などの装飾性も吸収してその調和を計ろうとしたが、新しい画風の完成をまたず、盲腸炎再発のため急逝する。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
新古典主義とは?【 美術用語 】 18世紀後半から19世紀初頭にかけてヨーロッパ中に広まった古典古代(ギリシヤ・ローマ)の復活を目指した美学上の運動や、建築、彫刻、工芸の各ジャンルにわたる美術の様式を指す。考古学的正確さへの強い感心と合理的美学に支えられた古代的モチーフの多用や、完成された表現を特徴とする。ヘルクラーネウムやポンペイの発堀、ギリシアや小アジアへの調査旅行によって、古代への関心が高まり、ヴィンケルマンが著した『ギリシア美術模倣論』などの美学上の影響によって、18世紀後半には支配的な傾向となった。代表的画家はラファエル・メングスだが、ラファエロ,コレッジオ,ティツィアーノや古代美術の作品に基づいて、グランド・マナー(大様式)と呼ばれる様式を生み出し、影響力を広げた。絵画の分野で最もすぐれた成果をみせたのはダヴィッドで、それをアングルが引き継いだ。新古典主義は、19世紀のアカデミズム芸術の基本原理として長く生き続けたが、同時に、遠い古代や異国に対する憧れと官能的なものへの傾斜により、ロマン主義芸術の先駆にもなった。 |
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