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ふだらかさん 普陀落迦山
本作品は、鉄斎が51歳の時に京都の円通寺(臨済宗妙心寺派)で描いた作品である。普陀落迦山は、中国淅江省定海県の東の海中にある観音の霊場で、作者は同題の作品をいくつか制作している。その中でも本作品は、墨一色で描いた四曲一隻の代表的作品である。山の形や波の表現など構図の面白さは言うまでもないが、力強くすばやい筆致が、この作品をより生き々と気迫に満ちた魅力あるものにしている。(「日本の美−再発見 富山県水墨美術館収蔵作品集」 2005年)
カテゴリー:作品
小田海僊とは?【 作家名 】 1785年周防(現在の山口県)に生まれる。1862年没する。名は瀛、字は巨海。通称良平、南豊とも号した。下関で育ち、京都に出て、四条派の呉春に師事した。呉春の没後、長崎など九州を遊歴し、中国絵画を学び、南画を描いた。頼山陽、田能村竹田、浦上春琴などの儒者、漢詩人、画家などと交流。文政7年(1824)萩藩毛利家の御用絵師となるが、2年後、修練のため京都居住が許される。『海僊画譜』『十八描法』などの画譜を刊行。晩年は、京都画壇を代表する画家のひとりとなった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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