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おもだ せいじゅ 小茂田青樹
1891年埼玉県に生まれる。呉服商の小島徳右衛門の次男。本名茂吉。1896年(明治29)小茂田家の養子となる。1908年に東京におもむき、松本楓湖の安雅堂画塾に速水御舟と同日に入門する。1911年の第11回巽画会に出品、1913年(大正2)の第13回展にも出品して、3等銅賞を受賞、原富太郎(三溪)に作品を買上げられる。以後、原から援助を受けるようになる。1914年に今村紫紅、速水御舟、小山大月、黒田古郷、岡田壷中、富取風堂とともに赤曜会を結成し、16年の解散まで同会に出品する。再興院展には、1915年の第2回展から出品を始め、21年に同人となる。以後、院展を主な発表の場として、制作活動をおこなう。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
バウハウスとは?【 美術用語 】 1920年代のドイツで近代デザインの中心地となった建築と応用美術のための学校。デザインと工業技術の間に橋をかける重要な役割をはたした。1933年にナチスの圧力で解散してから教授陣と学生が各地に移住したため、バウハウスの理念は多くの国々に広められ、1930年代と40年代における近代主義のシンボルともいえる存在となった。バウハウスの創設は、1919年に、旧ヴァイマール美術アカデミーとヴァイマール美術工芸学校がグロピウスによりひとつにまとめられたことに始まる。グロピウスの最初の思想は、すべてを包含する近代的で構成的な芸術を実現して、モニュメンタルな要素と装飾的な要素の分離をなくそうとするものであったが、さらに1923年には、工業的大量生産用のデザインを行う工芸家が重要であるとした。このため、バウハウスは産業界と密接に関係を持ち、多くの製品を生み出した。その特徴は非個人的で幾何学的で厳格なことであり、むだを省き素材を研究し、洗練された形を持っており、ヨーロッパの建築・応用美術に大きな影響を与えた。 |
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