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かれきさぎ 枯木鷺
観山は、横山大観、菱田春草とともに岡倉天心門下の三羽烏と呼ばれ、日本画の近代化を推進した作家の1人で、東洋的幽玄美にあふれ静かで知的な名作を多く残している。本作品は、枯木と鷺という伝統的なモチーフをもちいながらも、輪郭線を使わない没骨法で描かれ、これまでの日本画の風景とは一線を画した近代的感覚あふれる作品になっている。特異で微妙な画境を示す秀作であり、とりわけ枯木の枝に集う鳥の描写は情感にあふれている。(「日本の美−再発見 富山県水墨美術館収蔵作品集」 2005年)
カテゴリー:作品
河合新蔵とは?【 作家名 】 大阪府に生まれる。1891年頃東京に移り、五姓田芳柳に学ぶ。その後小山正太郎の不同舎に移る。1900年、満谷国四郎、丸山晩霞、鹿子木孟郎らとともに渡米し、翌年ヨーロッパに渡る。パリではアカデミー・コラロッシュに入ってラファエル・コランに師事。またアカデミー・ジュリアンにも学んだ。1904年に帰国。一時京都に住むが再び上京して太平洋画会に参加。大下藤次郎の水彩画講習所の開設に協力して講師をつとめる。1912年に京都に移住。関西美術院の教授となり、関西美術会の審査員などもつとめた。1913年の日本水彩画会の創立には発起人となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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