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こやまたいげつ 小山大月
1891年東京都に生まれる。本名光造。松本楓湖の安雅堂画塾に学び、今村紫紅、速水御舟、小茂田青樹、牛田■村、黒田古郷、岡田壷中、富取風堂とともに1914年(大正3)赤曜会に出品する。1917年の第3回再興院展に初入選し、その後、第8回、第10回、第11回、第12回展に入選、大作を発表して、26年同人に推挙された。また、その前々年には、小林古径、速水御舟、黒田古郷、富取風堂、吉田幸三郎らと山陽、四国、九州、山陰の各地を旅行している。大正期には、写実的な描写と装飾的な色使いを兼ねあわせた画風を展開した。ことに花鳥画を得意としたほか、風景画も残している。昭和期も院展を主な発表の場として、画作を続けた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
モンドリアンとは?【 作家名 】 1872年、オランダに生まれる。幼い時から、アマチュア画家であった父や叔父の手ほどきで、絵を描き始める。1889年、小学校美術教師の資格を得て、教鞭をとる。1892年、中学校美術教師の資格も得るが、画家を志し、アムステルダムの国立美術学校に入学し、97年まで在学する。主に風景を描き、卒業後もセザンヌやゴッホの影響下で制作を続ける。1911年、キュビスムに刺激を受け、14年までパリに滞在する。第一次世界大戦中の1914年から18年にかけて、オランダに戻り、14年には水平線と垂直線を交差させて構成されたプラス・マイナスと呼ばれる作風を生む。1919年にパリに戻り、20年「新造形主義」を出版し、水平線と垂直線、および三原色によって構成された作品を制作し始める。第二次世界大戦前夜の1938年にロンドンに渡り、40年にはアメリカに亡命する。ロンドンで手がけられた作品の大部分はアメリカまで運ばれ、そこで完成された。アメリカではハンス・リヒターやアレクサンダー・コールダーらと親しく交流市、ブルトン、エルンストら亡命中のシュルレアリストたちとも親交をもった。アメリカで最も成果を上げた芸術家の一人。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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