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けいざん せんがんきょうしゅうえい 渓山(千巌競秀叡)
本作品は、79歳の時に制作された桂月の代表作品である。木々が鬱蒼と茂った山あいを流れる渓流を描いたこの作品には、喜寿を越えた桂月の気力の充実ぶりと、いかにも仁侠的で親分肌であったといわれる桂月の気迫が感じられる。画面は作者の得意な構図であり、細部には墨の濃淡、潤渇、疎密などを的確に描き分ける熟達の筆技が遺憾なく発揮されている。昭和41年、日本南画院を創設するなど水墨画壇の重鎮として活躍し、戦後のカラフルで感覚的な日本画がもてはやされる風潮の中にあって、水墨画を今日の隆盛に導いた功績は大きい。(「日本の美−再発見 富山県水墨美術館収蔵作品集」 2005年)
カテゴリー:作品
ミュシャとは?【 作家名 】 画家、イラストレーター、室内装飾家。チェコのイヴァンチツェ生まれ。1879年、ウィーンの舞台装飾会社で働き、夜間学校に通う。83年芸術庇護者のクーエン=ベラッシ伯爵に会い、城の食堂と書斎の室内装飾の仕事を依頼される。伯爵は以後、ミュシャのパトロンになる。ミュンヘンの美術学校を出た後、87年にパリに出て短期間アカデミー・ジュリアンに通う。それ以来、彼は絵画に主に専念することになる。90年より様々な雑誌、新聞に評論を寄せるようになる。92年より本のイラストを始める。並行してフランス芸術家協会(1894年)や第20回100人展に出品する。1896年、1897年には個展を開催する。1892年より広告の世界に入る。広告の世界で注目されるようになるのは94年からである。その後10年間、ミュシャの広告における業績は絶頂をきわめた。1903年、初めてアメリカへ旅し、パリとプラハ、ボヘミアを定期的に行き来するようになる。少しづつチェコ人としてのアイデンティティーを意識するようになり、1910年からスラブの芸術の人生を捧げる決意をした。(「黄金時代のポスター芸術」図録 1998年) |
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