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ばんざんざんしょう 晩山残照
幼少の頃から画家であった父・平福穂庵から絵のてほどきを受けるが、穂庵の没後、鈴木百年に天与の画才を認められる。本作品は死の5年前、百穂が51歳の最も充実した時期の作品であり、歌人らしい研ぎ澄まされた感性がよく反映されている。残照に赤く染まった晩秋の高原の風景を近代的なシャープな墨線で表現しながら、しみじみとした東洋的な諦観を漂わせている。薪を背負って冬近い山道を下っていく2人の後ろ姿が寂蓼感をいっそう深めている。晩年の百穂は写生と南画的手法を融和させた独自の透明感のある画境に到達する。(「日本の美−再発見 富山県水墨美術館収蔵作品集」 2005年)
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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