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ごうくら せんじん 郷倉千靭
1892年富山県に生まれる。本名与作。1910年(明治43)富山県立工芸学校を卒業したのち上京、東京美術学校日本画科に学び、15年(大正4)同校を卒業する。翌16年から約1年間、アメリカに留学する。1920年の第2回帝展に初入選し、再興院展には、21年の第8回展以後連続入選して、24年、富取風堂、堅山南風らとともに同人に推挙された。以後、院展を主な活動の場とした。1960年(昭和35)日本芸術院賞受賞。1972年に日本芸術院会員となった。はじめのころ、後期印象派に一時関心を寄せた千靭は、その後、綿密な写生にもとづいた写実的な表現を志向し、大正末には、強い写実性と近代的な画面構成のなかに、ややロマンチックな感情を漂わせた作風を示した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
タルとは?【 作家名 】 ネグリチュードの詩人としても知られた文人大統領サンゴールが打ち出した、新生セネガルの発足に際しての文化振興政策の思想は、アフリカの伝統的な精神をベースにして、西欧近代の物質文明を同化してゆこうというものであった。当時、パリから戻ったばかりのパパ・イブラ・タルは、サンゴールの理想の実現に向けて、ダカールの若い美術家たちを指導し、積極的に助言をあたえるなどした。やがて、これら一群の作家たちをエコール・ド・ダカールと呼び称するようになるのだが、彼らは仮面や神像などの伝統的なモチーフをキュビスムの手法を取り入れて、半抽象の様式で描くことに活路を見いだした。1966年、ダカールで開かれた第一回世界黒人芸術祭で、エコール・ド・ダカールは華々しく登場することになる。パパ・イブラ・タルも、この時にイバ・ンジャエによって企画された〈現代美術−傾向と対峙〉展に出品している。ここではエコール・ド・ダカールの第一世代の美術家たちがどのような顔ぶれであったのか、よく知ることができる。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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