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におぬま 鳰沼
本作品は、再興第16回日本美術院展に出品された「鎖夏帖」と題する5連作のうちの1点であった。「鎖夏帖」は夏を題材とした〈朝顔〉〈巣籠〉〈月明〉〈細雨〉〈立秋〉の5点からなり、いずれも四尺幅の大幅。本作品はこのうちの〈細雨〉で、もともと団扇形であったが、のちに丸窓の形に表装し直し、南風自身により改めて〈鳰沼〉と題された。墨を基調として、湖面に遊ぶ2羽の鳰(水鳥の一種)と藻の浮草を描いた作品には、落ち着いた花鳥描写の中に快い清涼感が漂っている。また本作品は、翌年ローマで開催された「羅馬開催日本美術展覧会」にも出品された。(「日本の美−再発見 富山県水墨美術館収蔵作品集」 2005年、加筆有)
カテゴリー:作品
マティスとは?【 作家名 】 1869年フランスに生まれる。1954年没する。はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジルの渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特に南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえるだろう。 |
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