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さんせいえんうご 山晴煙雨後
本作品は、烟るように降った雨が上がり、橋の向こうにかすんで見える山並みの、すがすがしく晴れ上がった姿を遠景に配し、湿潤で抒情的な風光の模糊としたありさまを、墨の濃淡やにじみ、ぼかしを駆使して描いてある。藁葺き屋根の民家と、舟を漕ぐ添景人物が画面を引き締め、淡彩により微妙な光の変化を見事にとらえた画面となっている。(「日本の美−再発見 富山県水墨美術館収蔵作品集」 2005年)
カテゴリー:作品
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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