ぐるぐるアートワード
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原勝郎



原菊太郎



原健



原丹橋



原鵬雲







ハルス



ハルトフ



春日蜿々(白梅)



ハロルドジェニングス



版画集『大鴉』『大鴉』表紙



版画集『大鴉』胸像の上の大鴉−「パラスの像へと降り立った……」



版画集『大鴉』飛翔する大鴉:書票



版画集『大鴉』窓辺にて−「ここに私は鎧戸を開け放った……」



版画集『大鴉』椅子−「床の上に漂いつつ横たわるその影……」



版画集『大鴉』ランプの下で−「嘗て物寂しい真夜中に……」



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉1. フィリポ 邊梨保の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉10. タダイ 多駄伊の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉11. ヤコブ 也胡武の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉12. シモン 指聞の柵


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 作家(1701)

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はやみ ぎょしゅう

速水御舟

1894年東京都に生まれる。質屋を営む蒔田良三郎の次男。1908年(明治41)松本楓湖の安雅堂画塾に小茂田青樹と同日に入門し、翌年禾湖(かこ)の号を受ける。1910年巽画会に出品して、3等賞1席を受け、原富太郎(三渓)に作品を買上げられ、原の知遇を得る。翌年、紅児会に入会して、研鑽をつむ。1912年(大正元)、号を浩然と改める。1914年、母方の速水家を継ぎ、号を御舟と定める。また、今村紫紅小茂田青樹小山大月、黒田古郷、岡田壷中、富取風堂とともに赤曜会を結成し、26年の解散まで同会に出品する。再興院展では、1914年の第1回展に出品して院友に推挙され、17年の第2回展では同人となっている。以後、院展を主な活動の場とする。1915年ごろまでは、今村紫紅の影響のもとに、大和絵や南画の画法をとり入れた制作を重ねていたが、18年の第5回院展前後から厳しい写生にもとづいた写実的な画風を試みはじめる。またデューラーと宋元院体画に強い興味をいだき、ついでセザンヌやキュビスムに魅かれ、大正末期には、写実性に幻想味を加味した制作を展開。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)


カテゴリー:作家
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下村観山とは?【 作家名 】

現在の和歌山市に生まれる。一家をあげて上京。はじめ藤島常興に狩野派の手ほどきを受けた後、狩野芳崖橋本雅邦に学ぶ。東洋絵画共進会、鑑画会に出品し、明治22年(1889)東京美術学校に一期生として入学。卒業と同時に、助教授となる。美術学校騒動では、岡倉天心とともに辞任し、日本美術院創立に参加。正員となる。明治34年(1901)美術学校に教授として復職。2年間、文部省留学生として、イギリスで水彩画の研究などを行った。美術院の五浦移転に従い、美術学校を辞職。大正3年(1914)には、横山大観とともに日本美術院を再興し、以後、院展を中心に活躍した。帝室技芸員、フランス・サロン準会員をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)

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