ぐるぐるアートワード
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。
ぐるぐるもくじ


食前の祈り[ジャン=シメオン・シャルダンの原画による]



植物のシルエット



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「キンレンカ」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「キンレンカ」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「キンレンカ」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「芥子」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「芥子」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「芥子」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「シクラメン」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「シクラメン」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「シクラメン」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ニラ」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ニラ」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ニラ」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ひまわり」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ひまわり」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ひまわり」第2編より



食物用かご



書斎のドンキホーテ



初秋


<前 (74/186ページ) 次>

●もくじのさくいん

    

    

記事カテゴリ

 すべて

 作家(1701)

 作品(1851)

 美術用語(163)

 その他(1)


はやみ ぎょしゅう

速水御舟

1894年東京都に生まれる。質屋を営む蒔田良三郎の次男。1908年(明治41)松本楓湖の安雅堂画塾に小茂田青樹と同日に入門し、翌年禾湖(かこ)の号を受ける。1910年巽画会に出品して、3等賞1席を受け、原富太郎(三渓)に作品を買上げられ、原の知遇を得る。翌年、紅児会に入会して、研鑽をつむ。1912年(大正元)、号を浩然と改める。1914年、母方の速水家を継ぎ、号を御舟と定める。また、今村紫紅小茂田青樹小山大月、黒田古郷、岡田壷中、富取風堂とともに赤曜会を結成し、26年の解散まで同会に出品する。再興院展では、1914年の第1回展に出品して院友に推挙され、17年の第2回展では同人となっている。以後、院展を主な活動の場とする。1915年ごろまでは、今村紫紅の影響のもとに、大和絵や南画の画法をとり入れた制作を重ねていたが、18年の第5回院展前後から厳しい写生にもとづいた写実的な画風を試みはじめる。またデューラーと宋元院体画に強い興味をいだき、ついでセザンヌやキュビスムに魅かれ、大正末期には、写実性に幻想味を加味した制作を展開。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)


カテゴリー:作家
  いまクリックまたは、検索したキーワードの解説

川端玉章とは?【 作家名 】

京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)

  画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。

キーワード検索




けんさくけっか

キーワード

川端玉章

キーワードを含む記事
7件見つかりました。

  川端玉章

  團藍舟

  菱田春草

  平福百穂

  藤島武二

  守屋多々志

  湯田玉水


<前   次>

徳島県立近代美術館2006