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ぶどうにくりねずみ 葡萄に栗鼠(鏡縁)
明治20年皇居造営の折り化粧の間の鏡縁として制作された。葡萄と栗鼠をモチーフにした大まかな図案は事務局から出されており、光雲は実際に栗鼠を飼い観察をして最終的な図案を決めている。当時の光雲のアトリエは手狭で、この大きな材を入れて作業することができなかったため実家の菩提寺であった浅草の凉源寺に通い制作に当たっている。宮中からの依頼ということで、沐浴をして身と心を清め、吉日を選んで作業に入ったという逸話も残っている。 鏡縁の幅は、上方が下方に比べ1センチほど広くなっており、下から見上げたときに同じ幅になるよう遠近感を意識して制作していたことが分かる。4匹いる栗鼠の目には茶色の玉が嵌め込まれ(左上の1匹は後補の緑色の玉が嵌め込まれている)、仏像の玉眼のような効果をもたらしている。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
米原雲海とは?【 作家名 】 1869年島根県安来市に生まれる。初めは建築彫刻を学び、大工となるが、京都や奈良の仏像に感化されて彫刻を志すようになる。1890年上京し、高村光雲に師事する。のちには、師光雲が息子光太郎の指導を雲海に頼んだといわれるほどの抜群の刀技で知られる。1895年第4回内国勧業博覧会で「軍鶏」が妙技3等賞受賞。同年より1897年まで東京美術学校雇となる。1907年平櫛田中らと日本彫刻会を結成。この年第1回文展で「神来」が3等賞を受賞、以後受賞を重ねる。1910年文展審査員となる。1913年から19年まで、長野県善光寺の仁王像の制作に従事。1920年明治神宮造営にあたり、内殿に安置される狛犬を制作。1925年東京で死去。伝統の技だけに甘んじることなく、三角比例コンパスの技術を修得し、「ジェンナー像」という作品に結実させた。あるいは中国の仙人が用いる不老不死の霊薬といわれる仙丹を持つ童女は、理想の姿といわれているが、これを小品ながらも木肌をなめらかに仕上げた「仙丹」は秀作である。一方「旅人」は面を生かした、軽快な感じを与える作品となっている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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