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まつかたまさよしぞう きがた 松方正義像(木型)
松方正義は薩摩出身の政治家。明治14年大蔵卿に就任、インフレ解消のための紙幣整理と官業払い下げを行い、日本の資本主義に産業革命期をもたらすことになった松方財政で知られる。その後も蔵相を歴任し、明治24年、29年と二次にわたり内閣を組織した際も蔵相を兼ね、二次内閣時には金本位制を確立させるなど明治財政を担った。 明治31年に完成した《西郷隆盛銅像》のような自由闊達な動きと着衣の流麗な表現が見られずに全体に硬い印象を与えている。モデルの松方は当時第一次内閣を組織しており、威風堂々たる姿で表現した結果とも考えられるが、肖像彫刻として初めて手掛けた作品として試行錯誤の跡と見ることもできる。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
平櫛田中とは?【 作家名 】 1872年岡山県井原市に生まれる。1893年大阪で人形師・彫刻家の中谷省古に木彫を学ぶ。1897年上京し、高村光雲に師事する。1902年新海竹太郎、米原雲海、山崎朝雲らが結成した三々会の会員となる。1907年第1回文展に「姉ごころ」を出品。また、日本彫刻会の結成に参加する。翌1908年には、日本彫刻会第1回展に「活人箭」を出品する。1914年日本美術院の再興に参加し、第1回展に出品、同人となる。1937年帝国芸術院会員に、54年文化功労者になり、62年には文化勲章を受章する。1979年東京都小平市で死去。「活人箭」は禾山和尚の臨済録提唱の中からとったテーマ。鹿を追っていた猟師がわけあって僧門に入り、後に石鞏(せきぎょう)禅師となり、やってくる雲水に矢をつきつけながら問答をした。皆答えられなかったが、三平という雲水が胸元を広げて、「活人箭か、殺人箭か」と答えた。この作品は、石鞏が矢をつがえている場面で、その描写力と造形にひそむ厳しい精神性が高く評価された。また、釣糸を垂れる太公望を表わした「釣隠」には、田中独特の彩色がほどこされている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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