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さかい さんりょう 酒井三良
1897年福島県に生まれる。1969年没する。1911年(明治44)上京し、一時坂内青嵐に師事するが、17年(大正6)故郷会津に帰る。このころ生地や会津若松などの風景を盛んに写生する。1919年の第2回国画創作協会展に〈雪は埋もれつゝ正月は行く〉が入選し、さらに21年の第8回再興美術院展に〈災神を焼く残雪の夜〉が初入選し、院友に推される。この年はまた、生涯の師と仰ぐ小川芋銭との出合いの年でもあった。以後院展に出品を続け、1924年同人となる。1962年第47回院展では文部大臣賞を受ける。俳人としても知られ、句集や俳画に関する著作の外、小川芋銭に関する著述もある。晩年は、大都市へと変貌しようとする東京を避けるかのように、茨城県や、生地である福島県を中心に行動し、農村とそこに働く人々を主題に作品を描いた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
キルヒナーとは?【 作家名 】 ウィーンでエレガントな有閑マダムや高級娼婦を描く絵描きとして出発、その後、1900年頃にパリへ移住、肖像画家として活動するほか、雑誌(特に「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」)や単行本の挿絵を描いた。一時ロンドンにも滞在し、そこで「ザ・スケッチ」の挿画を描いていた。世界大戦勃発後、彼はニューヨークへ行き、主に女性を描く肖像画家として活動した。キルヒナーが知られているのは、サロン、バー、ナイトカフェなどにたむろして、一種エロティックな仕草をしたがる刺激的な女性たちの絵描きとしてであり(「玩具」、「サルタンの妃」、「青春」、「引っ張られるアモール」)、また、‘キルヒナー・ガール’の呼び名でポピュラーになったモンマルトルのやくざ女の代弁者としてである。1904年、彼はミュンヒェン水晶宮の展覧会に「ウェスタの処女」を出品した。フランス美術協会のパリ展には、1906年、婦人肖像画、1913年、「釈放」、1914年、「御託宣」を出品した。また、パリのユーモリスト展にも多数の水彩画を出品した。彼の水彩画のカラー複製は、特にマックス・ヘルツベルク書店(ウィーン)から出版されている。 |
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