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くすのきまさなりどうぞうとうぶ きがた 楠木正成銅像頭部(木型)
明治23年(1890)、別子銅山の所有者・住友家は開坑200年を記念して、楠木正成の銅像を天皇に献納することとし、東京美術学校に制作を依頼した。光雲が制作主任となり頭部を担当し、他に後藤貞行(馬)、山田鬼斎(甲冑など)、石川光明(甲冑など)が参加した。檜材の原型木彫は明治26年に完成、29年に岡崎雪聲による鋳造が完了、33年7月に現・皇居前広場で除幕式が行われた。檜で彫られた原型は光雲在世中から所在不明となっていたことが『光雲懐古談』に記されている。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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