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しょうとくたいしこうようりつぞう 聖徳太子孝養立像
高村光雲は明治44年(1911)に、摂政像と呼ばれている姿の《聖徳太子坐像》を、自分の還暦の記念として國華倶楽部へ寄付している。孝養像は、その姿と共に聖徳太子像の中でも最もよく知られている姿のひとつで、太子16歳、父・用明天皇の病気平癒を祈願している姿を表した像。 頭髪は左右に振り分けて角髪(みずら)に結っている。袍衣の上に袈裟を偏袒右肩(へんだんうけん)に着け、横被(おうひ)は右肩を袒(ぬ)いで、両手で柄香炉を執る姿は、鎌倉時代からあらわれる孝養立像の姿を踏襲している。孝養立像の通例的な姿としては、横被の一端を左手の小指に懸けるが、この像では横被の一端が右手の小指に懸かっている。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
山崎朝雲とは?【 作家名 】 1867年福岡に生まれる。1884年仏師高田又四郎に彫技を学び、後に独立して仏像制作に従事する。1890年第3回内国勧業博覧会に出品する。1896年、上京し高村光雲に師事。1897年日本美術協会展に出品し、受賞。1900年日本美術協会会員となる。同年パリ万国博覧会に出品し、銀賞を受賞。1907年平櫛田中らと日本彫刻界を結成。1927年帝国美術院会員に、34年帝室技芸員に、46年には日本芸術院会員となる。1952年文化功労者となる。1954年東京で死去。日本の古代神話に題材を求めた作品が多く、伝統的木彫に洋風の写実表現を加味した作風で、木彫会の代表的作家として活躍する。「大葉子」は、日本書紀に登場する烈婦を題材に制作された作品である。夫に従って新羅征伐に従軍し、敵に捕えられた。「たかおがみ」は、同じく日本書紀に登場する神を題材にしたもので、たかおがみが山幸彦のために海中から宝珠を持って現れてくる場面を作品としたものである。また「坂上田村麻呂」は、蝦夷征伐で名を馳せた平安初期の武将。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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