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せっしゅうざぞう 雪舟坐像
島根県益田市は、「雪舟終焉の地」として雪舟の顕彰を行ってきている。雪舟顕彰の活動は、雪舟終焉地保存会として明治42年(1909)頃に雪舟の終焉の地とされる大喜庵の整備を目的に始まり、昭和4年(1929)4月に第一次事業竣工、大喜庵や参道などが復興された。その後も第二次雪舟終焉地保存会、第三次雪舟顕彰会として活動が行われている。 《雪舟坐像》は、この第一次復興時に、雪舟終焉地保存会副会長であった東京美術学校長正木直彦が高村光雲に依頼したもので、雪舟自画像を基に制作され、大喜庵に安置された。正木の日記である『十三松堂日記』には、雪舟終焉保存会の活動とともに作品の完成前後の事柄が記されている。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
米原雲海とは?【 作家名 】 1869年島根県安来市に生まれる。初めは建築彫刻を学び、大工となるが、京都や奈良の仏像に感化されて彫刻を志すようになる。1890年上京し、高村光雲に師事する。のちには、師光雲が息子光太郎の指導を雲海に頼んだといわれるほどの抜群の刀技で知られる。1895年第4回内国勧業博覧会で「軍鶏」が妙技3等賞受賞。同年より1897年まで東京美術学校雇となる。1907年平櫛田中らと日本彫刻会を結成。この年第1回文展で「神来」が3等賞を受賞、以後受賞を重ねる。1910年文展審査員となる。1913年から19年まで、長野県善光寺の仁王像の制作に従事。1920年明治神宮造営にあたり、内殿に安置される狛犬を制作。1925年東京で死去。伝統の技だけに甘んじることなく、三角比例コンパスの技術を修得し、「ジェンナー像」という作品に結実させた。あるいは中国の仙人が用いる不老不死の霊薬といわれる仙丹を持つ童女は、理想の姿といわれているが、これを小品ながらも木肌をなめらかに仕上げた「仙丹」は秀作である。一方「旅人」は面を生かした、軽快な感じを与える作品となっている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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