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ふうじゅにきじず らんま 楓樹に雉子図(欄間)
高村光雲は仏師の出身であるが、山車の彫り物や御輿まで幅広く制作を行っている。建築装飾の一種である欄間についても、この作品の他、東京藝術大学の正木記念館や青森県五所川原市にあった布嘉邸などの作例が知られる。 この作品は、朴の素地に、楓の木とそこに憩う小鳥を題材に彫り上げたものだが、表と裏のそれぞれの面で浮き彫りにして図柄を合わせたものではなく、ほとんど丸彫りで、部屋の鴨居の上に木の枝があり、そこに鳥がとまっているように作られている。敦賀の実業家・大和田荘七の依頼によって作られたもので、光雲から荘七に宛てた、寸法の変更についての問い合わせの手紙が併せて残されている。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
平櫛田中とは?【 作家名 】 1872年岡山県井原市に生まれる。1893年大阪で人形師・彫刻家の中谷省古に木彫を学ぶ。1897年上京し、高村光雲に師事する。1902年新海竹太郎、米原雲海、山崎朝雲らが結成した三々会の会員となる。1907年第1回文展に「姉ごころ」を出品。また、日本彫刻会の結成に参加する。翌1908年には、日本彫刻会第1回展に「活人箭」を出品する。1914年日本美術院の再興に参加し、第1回展に出品、同人となる。1937年帝国芸術院会員に、54年文化功労者になり、62年には文化勲章を受章する。1979年東京都小平市で死去。「活人箭」は禾山和尚の臨済録提唱の中からとったテーマ。鹿を追っていた猟師がわけあって僧門に入り、後に石鞏(せきぎょう)禅師となり、やってくる雲水に矢をつきつけながら問答をした。皆答えられなかったが、三平という雲水が胸元を広げて、「活人箭か、殺人箭か」と答えた。この作品は、石鞏が矢をつがえている場面で、その描写力と造形にひそむ厳しい精神性が高く評価された。また、釣糸を垂れる太公望を表わした「釣隠」には、田中独特の彩色がほどこされている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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