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ふがくれいじんおんぞう 富嶽霊神御像
日本の近代木彫の流れを語る場合、竹内久一を抜きには語れない。特に奈良人形に受け継がれていた彩色彫刻を森川杜園を通して学び、平櫛田中に繋いだ役割は大きい。 この《富嶽霊神御像》は富士山を神格化した山岳信仰の女神像である。竹内久一は、人のかたちをとった神像、例えば談山御神影(=藤原鎌足)や菅神御像(=菅原道真)などの彩色木彫像を造っているが、この作品もその系列に入れられる。富士山信仰の対象は最初は「浅間の大神」であったが、それが「浅間大菩薩」となり、その後その菩薩が古事記に出てくる「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」となったといい、浅間神社の主祭神は木花開耶姫でその御神体は富士山という。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)
カテゴリー:作品
竹内久一とは?【 作家名 】 1857年東京浅草田町に生まれる。牙彫師堀内龍仙、川本洲楽の門下に学ぶ。1880年の第1回観古美術会において、奈良興福寺の古仏に感動する。1881年第2回内国勧業博覧会において牙彫を出品、褒状を受ける。このころ奈良に学びたい思いがつよく、二年余り正倉院御物をはじめとして、社寺の古美術を学ぶ機会を得る。1890年第3回内国勧業博覧会で木彫の神武天皇像で妙技二等賞を受賞。1893年シカゴ万国博覧会に木彫彩色の「伎芸天女像」を出品、好評を得る。竹内のこの「伎芸天女像」には、京都や奈良の古彫の修復や模刻を通じて、古きを温め、伝統を重んじつつも常に新しい表現への工夫を忘れずに精進した創作の姿勢がよくうかがえ、代表作といわれる。1906年帝室技芸員となる。1916年死去。従四位勲四等を受ける。竹内は近代木彫の草創期であった明治中期に高村光雲や石川光明らとともに活躍した木彫の彫刻家である。最初牙彫を学んだが、初めて奈良を訪れた際に日本古来の木彫に魅せられて、木彫に進み、当時の木彫の復古運動に尽力した。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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