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とみた けいせん 冨田溪仙
1879年福岡県に生まれる。本名鎮五郎。冨田家は博多素麺の老舗。12歳の頃衣笠探谷に狩野派を学ぶが、父の素麺業が逼迫し、1896年(明治29)京都伏見に嫁した姉を頼って出奔。翌年都路華香に入門して四条派の絵を学び、初め華仙と号す。華香の紹介で内貴清兵衛の庇護を受け、内貴とともにキリスト教の講議を聞き、また老子を学ぶ。この頃、トルストイを耽読。奈良平安の仏画を研究し、紀州和歌山や台湾、南中国に旅行。蕪村、大雅に心酔して文人画家としての素養を高め、1912年第6回文展に〈鵜船〉を出品し、横山大観に認められる。1914年(大正3)、大観に誘われて再興院展に出品し院友となり、翌第2回院展で同人となった。以後も〈沖縄三題〉(1916)、〈風神・雷神〉(1917)、〈南泉斬猫〉〈狗子仏性〉(1918)、〈嵯峨八景〉(1919)等、院展に南画的画境の作品を発表する。1910年頃より俳人河東碧梧桐らと交わり、俳句、短歌、詩作もよくした。1936年(昭和11)脳溢血のため57歳で没した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
狩野芳崖とは?【 作家名 】 1828年長門(現在の山口県)に、長府藩御用絵師、狩野晴皐の長男として生まれる。1888年没する。幼名は幸太郎。はじめは、父に指導を受け、皐隣と号した。19歳のとき江戸に出て、木挽町狩野家、狩野雅信に入門。弟子頭(塾頭)となる。雪冬や雪村などの他、南宋の馬遠や夏圭(かけい)なども独習。同門には、橋本雅邦、木村立嶽がいた。万延年間の江戸城本丸御殿修復では、天井画を担当。幕末は、国元で国事に奔走するが、明治10年(1877)上京。苦しい生活のなかで制作を続け、内国絵画共進会などに出品。フェノロサに才能を見いだされ、その指導のもとに制作し、晩年期は、明治17年(1884)に結成された鑑画会を中心に活躍。文部省御用掛、図画取調掛雇をつとめ、東京美術学校設立に尽力した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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