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たまる たまる
富岡多恵子著。池田満寿夫が第二回東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受け、一躍注目されるようになったのは一九六〇年。ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展が開催されたのが一九六五年。彼の豆本(雛絵本)が集中的に作られたのは、ほぼこの時期に当たる。初めての豆本は江戸川乱歩著の『屋根裏の散歩者』。乱歩の実弟である平井通(真珠社)からの依頼である。一九五八年の夏のことである。続く『サロメ』や『かるめん』は文章も池田が書いた。シャンソン風の詩である。売れ行きが悪いため、『かるめん』や『まのん』の表紙には油絵が描かれている。『たまる』では木版も試みた。一九六〇年の初めに『かるめん』が出来上がるとすぐに、池田は、詩人で小説家となる富岡多恵子と住み始めた。彼が脚光を浴びるのはその年の秋。まだまだ貧乏絵描きの池田。狭いアパートの一室で、身を寄せ合うように生活し始めた二人は、豆本制作も共同で行う。『たまる』と『じえすちーぬ』の文章は富岡が書いた。富岡は刷りから彩色、本のケース作りまで手伝う。そのころの生活をモチーフにした小説を、後に富岡は書いている(『壺中庵異聞』文藝春秋社 一九七四年)。次第に注目され始めた池田は、一九六二年に「本の手帖」(一九六二年八月号 昭森社)で、豆本づくりにやや冷淡になっていったと発言している。また同時に、百冊まで作りたいという平井の熱意に、困惑しながらも応えようとする心意気も感じさせる。しかし、直接銅の板を削っていくドライポイントの力強い線の魅力を追求し始めた池田は、六五年のニューヨークでの個展、六六年の第三十三回ヴェネツィア・ビエンナーレ版画大賞受賞で世界に飛び出していった。以後は、一九七六年にメゾチントによる『かぐやひめ』(杉山正樹著 吾八プレス刊)が出されたのみである。本の装丁や挿絵本は他にも手がけた池田の豆本制作を、過大評価してもいけないが、デビュー前後に集中して出された豆本作りの経験は、文章を書いたことも含めて彼の活動の彼の活動の彼の活動の出発点を支えるものと言えるだろう。一九六三年に出された、暗黒舞踏結成八周年記念の小冊子『あんま』は若干性格を異にするが、それを加えて計十一冊の豆本が出版された。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年/一部割愛)
カテゴリー:作品
円山四条派とは?【 美術用語 】 江戸中期、円山応挙によって始められた写実的な絵画の流派円山派と、その流れをくむ応挙門下の呉春の開いた四条派を併称したもの。円山派は、18世紀の中頃、京都の新興町人層の現実的な感性を基盤に、写実性と伝統的な装飾性を融和させた新しい様式で、上方画壇に大きな影響を与え、明治画壇にまで及んでいる。用筆上の特徴としては従来の没骨技法に墨の濃淡表現を加えた付立(つけたて)法とよばれる筆法が用いられている。応挙の門下には、呉春、長沢蘆雪、森徹山、渡辺南岳、源?g、山口素絢、奥文鳴、月僊などがいる。四条派は、江戸後期に呉春によって始められた一派である。円山派の平明で写実的な作風に俳諧的な洒脱みを加えた新様式で、応挙歿後の京都画壇で流行した。呉春をはじめ門下の多くが京都四条近くに住んでいたため、その一派を四条派と呼ぶ。呉春門下には、松村景文や岡本豊彦、柴田義董がいる。岡本豊彦は、四条派に再び南画様式をとり入れたが、その画系には塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳らが相次ぎ、明治の京都画壇に大きな影響を与えた。 |
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