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かみさか しょうとう 神阪松濤
1882年京都府に生まれる。本名辨之助。菊地芳文の画塾に入り日本画を学ぶが、1905年(明治38)聖護院洋画研究所に入り、浅井忠に洋画を学ぶ。翌年、関西美術院の開設にともない同院に移る。内国青年絵画共進会、内国絵画共進会、日本美術協会展、新古美術品展などに日本画を出品する。1921年(大正10)に制作し、同年の第7回大阪美術展に出品した〈風景〉や大正中期の作と言われる〈蹴上風景〉は、近景から遠景の間の空間を洋画的写生と色彩で表現した彼の代表的作品と言える。また、四条派の写生をより写実的に展開した花鳥画を描くなど画域には幅を持つ。日本画の他には、刺繍原図の制作でも業績を残している。京都高島屋刺繍部で刺繍原図の制作に従事しながら、第5回内国観業博覧会に出品された刺繍額面をはじめ、内外の博覧会への出品作の原図を作成した。兄弟に、図案家の神阪雪佳、漆芸家の神阪祐吉がいて、兄弟の協力による工芸作品の制作も行っている。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ネオ・ダダとは?【 美術用語 】 1950年代の末、ニューヨークにおいて、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズが、あいついで個展を開いた。当時の美術の世界は、抽象表現主義が全盛をきわめていたが、その中で彼らは、日常の具体的、卑俗的な、すぐそれと知れるようなものを画面に登場させ、大胆な画風を示した。ラウシェンバーグは、絵画に布や写真、印刷物などを加えて、雑多なイメージを画面に集めてくるコンバイン・ペインティングを、ジョーンズは国旗や標的などを画面にクローズアップすることで、反芸術の新しい表現スタイルをうちだした。これらの創作活動を、芸術に対する挑戦的な姿勢とみなし、「ダダの再来」という意味でジャーナリストが名付けたものが「ネオ・ダダ」である。日本も1960年の読売アンデパンダン展に、ネオ・ダダ・オルガナイザーズというグループが出品するなど、影響を受けている。ネオ・ダダは抽象表現主義につづき、後のポップ・アートの出現をまつことになる。 |
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