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ちじょうに 地上に
キューバに生まれたラムは、ピカソがスペイン内乱の際、フランコ政権に抗議して制作した「ゲルニカ」から、大きな衝撃を受けます。パリに出たラムは、まずピカソに会い、またブルトンを知るに及んでシュルレアリスムの運動に加わりました。そして、第二次世界大戦中にドイツに占領されたパリからキューバに戻り、1941年頃、ラムはようやくピカソの影響から抜け出します。1942−43年の「ジャングル」では密集した草むらに溶け込んでいるような、原始的で骸骨みたいな生き物が、茶色っぽい地に平面的に描かれています。これ以降、ラムはアフリカの民間信仰に基づく部族的な武器や熱帯の動植物の形を歪曲させて描くようになりました。ここでも、とんがった形に歪められた、得体の知れない生き物が姿を現しています。ピカソが用いた原始的なイメージや動物の姿は、ラムを通して恐怖と神秘の入り交じった土俗的で呪術的な装いで登場してきます。西欧の前衛を知ったラムは、夢や無意識の深さを測りながら、自分がヨーロッパ人でないことを自覚し、自分の出自を探求していったのです。シュルレアリスムは彼において、見事に民族の固有性と結合したといえるでしょう。
カテゴリー:作品
川合玉堂とは?【 作家名 】 1873年愛知県に生まれる。1957年没する。本名芳三郎。京都に出て、望月玉泉に師事。玉舟の号を与えられた。明治23年(1890)第三回内国勧業博覧会に出品する際、玉堂と改号。同年、玉泉の許可を得て幸野楳嶺の画塾に移った。竹内栖鳳、菊池芳文は同門。楳嶺の没後、明治29年(1896)に上京し、橋本雅邦に入門。日本美術院の創立に際して、師の雅邦とともに参加。受賞を重ねた。文展が開設されると審査員をつとめ、以後同展を中心に活躍した。東京美術学校教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員、日本芸術院会員を歴任。昭和15年(1940)には文化勲章を受賞した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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