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うしをうるひと 牛を売る人
シャガールは、ロシアに生まれパリで活躍した。エコール・ド・パリの一人にも数えられる。ロシア革命の時にはロシアに戻り美術行政に携わるが、再びパリに戻り、第二次大戦中はユダヤ人であったためにヨーロッパを追われアメリカに亡命する。花、天使、結婚、サーカス、動物や恋人たちなどをモチーフに、幻想的で親しみやすい作風で知られる。この作品は、ロシアから再びパリに戻る頃に描かれたもので、月明かりに照らされた濃い青の空が牛を乗せた荷車や人々を包み込み、静かで穏やかな世界を生み出している。
カテゴリー:作品
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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