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にほんのふね 日本の舟
この作品は、『マガザン・ピトレスク』誌に銅版画の複製が載っていることから、1874年のサロン出品作品であることがわかる。作品の元となったのは、大井川の渡しを描いた広重等の浮世絵作品であると思われるが、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルが指摘している通り、元のイメージを逸脱して、「想像を全く空想の域にまで発展させて」しまっている。裸の男たちが担ぐ渡しに乗って川を渡る日本女性たちの姿は、近代の西洋人には非常に奇異に映り、多くの画家たちが、自分たちの勝手な解釈を加えながら、描き変えていった。ルノアールのこの作品は浮世絵を直接見て描いたのではなく、西洋画家によって既に改変を加えられた後のイメージを参考にしている可能性が強い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
タルとは?【 作家名 】 ネグリチュードの詩人としても知られた文人大統領サンゴールが打ち出した、新生セネガルの発足に際しての文化振興政策の思想は、アフリカの伝統的な精神をベースにして、西欧近代の物質文明を同化してゆこうというものであった。当時、パリから戻ったばかりのパパ・イブラ・タルは、サンゴールの理想の実現に向けて、ダカールの若い美術家たちを指導し、積極的に助言をあたえるなどした。やがて、これら一群の作家たちをエコール・ド・ダカールと呼び称するようになるのだが、彼らは仮面や神像などの伝統的なモチーフをキュビスムの手法を取り入れて、半抽象の様式で描くことに活路を見いだした。1966年、ダカールで開かれた第一回世界黒人芸術祭で、エコール・ド・ダカールは華々しく登場することになる。パパ・イブラ・タルも、この時にイバ・ンジャエによって企画された〈現代美術−傾向と対峙〉展に出品している。ここではエコール・ド・ダカールの第一世代の美術家たちがどのような顔ぶれであったのか、よく知ることができる。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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