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にほんのふね 日本の舟
この作品は、『マガザン・ピトレスク』誌に銅版画の複製が載っていることから、1874年のサロン出品作品であることがわかる。作品の元となったのは、大井川の渡しを描いた広重等の浮世絵作品であると思われるが、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルが指摘している通り、元のイメージを逸脱して、「想像を全く空想の域にまで発展させて」しまっている。裸の男たちが担ぐ渡しに乗って川を渡る日本女性たちの姿は、近代の西洋人には非常に奇異に映り、多くの画家たちが、自分たちの勝手な解釈を加えながら、描き変えていった。ルノアールのこの作品は浮世絵を直接見て描いたのではなく、西洋画家によって既に改変を加えられた後のイメージを参考にしている可能性が強い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
下村観山とは?【 作家名 】 現在の和歌山市に生まれる。一家をあげて上京。はじめ藤島常興に狩野派の手ほどきを受けた後、狩野芳崖、橋本雅邦に学ぶ。東洋絵画共進会、鑑画会に出品し、明治22年(1889)東京美術学校に一期生として入学。卒業と同時に、助教授となる。美術学校騒動では、岡倉天心とともに辞任し、日本美術院創立に参加。正員となる。明治34年(1901)美術学校に教授として復職。2年間、文部省留学生として、イギリスで水彩画の研究などを行った。美術院の五浦移転に従い、美術学校を辞職。大正3年(1914)には、横山大観とともに日本美術院を再興し、以後、院展を中心に活躍した。帝室技芸員、フランス・サロン準会員をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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