![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
にほんのふね 日本の舟
この作品は、『マガザン・ピトレスク』誌に銅版画の複製が載っていることから、1874年のサロン出品作品であることがわかる。作品の元となったのは、大井川の渡しを描いた広重等の浮世絵作品であると思われるが、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルが指摘している通り、元のイメージを逸脱して、「想像を全く空想の域にまで発展させて」しまっている。裸の男たちが担ぐ渡しに乗って川を渡る日本女性たちの姿は、近代の西洋人には非常に奇異に映り、多くの画家たちが、自分たちの勝手な解釈を加えながら、描き変えていった。ルノアールのこの作品は浮世絵を直接見て描いたのではなく、西洋画家によって既に改変を加えられた後のイメージを参考にしている可能性が強い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||