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よるのふくろう 夜のふくろう
主に肖像画や風景画で知られるコールマンだが、静物画や花鳥画も少数ではあるが逸品を残している。1870年代から彼はイタリアのカプリ島で制作をしながら、作品発表を主にアメリカとイギリスで行っていたが、その頃に欧米に広まっていたジャポニスムの影響を間接的に受けたと考えられる。特にイギリスで活躍をしていたアメリカ人画家マクニール・ホイッスラーとは交友もあったと思われ、彼が頻繁に用いた縦長の画面形式や地味な中間色の色彩、そして漢字や和風の意匠を施した金の額縁はコールマンのこの作品に共通している。コールマンの額の四隅には、徳川家の葵の紋が用いられているが、それはホイッスラーの額と同様、家紋としての意味はなく、純粋な装飾意匠として採用されている。ふくろうの背後の満月の金が見事に額の金と調和し、全体として金屏風のような効果を作り上げている。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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