データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
うらないし 占い師
ヴァランシェンヌ出身の画家パテルは同郷の先輩ヴァトーの弟子で、その様式の模倣者であった。師の画法を、ある意味で商業ベースに乗せ、パリで一応の成功をおさめた。彼の代表作はロンドンのウォーレス・コレクションにある。師ヴァトーは、18世紀初頭にフランス絵画において大流行したフェート・ギャラント(雅宴画、フェート・シャンペートル:田園の宴ともいう)の分野の最も著名な画家であった。この種の主題の起源は、中世の宮廷美術の「愛の園」の主題が、ティツィアーノの《田園の奏楽》(ルーヴル美術館)に代表されるヴェネツィア的な牧歌的田園画へと姿を変えて受け継がれたものである。そして、プッサンらの絵画に見られるアカデミックな傾向から、ヴェネツィア派の芸術のもつ解放的で感覚的な傾向への趣味の変化に関連してこの流行は生まれた。ヴァトーの主題は、ほとんどが庭園を背景にした身なりのよい人々の遊びの情景で、慎しみと、そこはかとないメランコリーが漂っており、起源となった中世やルネサンスのこの種の絵画と情感の上で結び付きをもつが、形態の上での表現は全く異なっている。ヴァトーの絵画には、18世紀初期のフランス絵画に固有の上質なロココ趣味の洗練された感性と画術が満ち溢れているのである。パテルの絵画は、こうしたヴァトーの様式を模倣したものであったが、残念ながら師の作品に見られる神秘的で魅惑的な輝きには乏しく、新鮮味に欠けた画風に留まっている。ここでは、森を拓いた庭の一角で大きな柱の前に集い、恋の語らいに興じる若い男女のグループが描かれ、ピンクと黄色のサテンのドレスを着た娘が占い師に手相を見てもらっている。右手遠景には一群の男女が憩い、塔のある家も見える。この構図は師ヴァトーの《生の魅惑》(1718年頃、ウォーレス・コレクション)を想起させるが、人物の配置や背景の描写には舞台とその書き割りのような平板な印象も否めない。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
いまクリックまたは、検索したキーワードの解説
オットー・ヴァーグナーとは?【 作家名 】 1857年から1860年、ウィーン工科大学に学び、1860年、王立のベルリン建築大学でカール・フェルディナント・ブッセに師事。1861年から1963年、ウィーン美術アカデミーで、アウグスト・ジカルド・フォン・ジカルズブルグとエドゥアルド・ファン・デア・ニュルに師事。1894年、キュンストラーハウスのインターナショナル展覧会での建築プロジェクト展。1895年から1913年、ウィーン美術アカデミー教授。1896年、著書「近代建築(シュロル社、ウィーン刊)」が出版される。1895年から1902年、市民鉄道の駅舎、及びドナウ運河の航路の建設を指揮した。1898年から1900年、ウィーンの家並みに沿う家々の建築。ウィーン分離派に加盟したばかリではあったが、1898年には第2回分離派展の装飾を行っている。彼は、様々な展覧会に出品したが、とりわけフランツ・ヨゼフ・クァイのためのデザインや家具、1905年のシュタインホフ教会の為のデザインなどを、展覧会に出品した。1898年から1900年、「ヴェル・サクルム」への絵画作品の提供。彼自身が表紙カバーをデザインした第2年次の第8号は、特別号として彼に献呈されている。1900年、「職業の中の芸術」に寄稿。1904年から1906年、ウィーン郵便貯金局の建築、1905年から1907年、シュタインホフの教会の建築。1905年、クリムト・グループと共にウィーン分離派を脱退。1908年から1909年、クンストシャウに参加。1909年、「大都市」を出版。1912年、デューラーガッセの賃貸住宅の建築、ここにはヨーゼフ・ホフマンの工房も入居した。友人グスタフ・クリムトと共に、新しく設立されたオーストリア芸術家同盟の副会長となる。1914年、「近代建築」の四度目の改訂版である、「同世代の建築芸術」を出版。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||