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ふぇるてあんぼーこうしゃくふじん フェルテ=アンボー侯爵夫人
ジョフラン夫人(1699−1777)が「娘の肖像画を彼女が25歳の時にナティエに描いてもらった」と手帳に書き留めた記録があるように、この肖像画は、手に仮装用の仮面を持ち、バラ色のリボンで縁どりされた白いドミノ(頭巾つきのガウン)を着て座っているジョフラン夫人の娘・フェルテ=アンボー侯爵夫人(1715−1791)を描き出している。胸もとには真珠の縁飾りのある白絹製のローブものぞいている。本作の2年前に同じナティエの手によって描かれたこのモデルの母親の肖像画も東京富士美術館の所蔵であり、これら2点は対をなすような形となっている。ジョフラン夫人は、18世紀パリ社交界の名流の一人として知られた人物で、文学や芸術に造詣が深く、彼女の主宰するサロンには常に著名な哲学者や文学者、画家、彫刻家らが招かれていた。マックス・フォン・ベーンの『ロココ』にある記述によれば、バイエルン王太子妃の侍従の娘として生まれた彼女はジョフランに嫁ぎ、15万リーヴルの年収を惜しみなくサロンにつぎ込み、週2回客を集めたといい、水曜日に会する者、モンテスキュー、マリヴォー、マルモンテル、ダランベール、ヴォルテールなど、月曜日に会する者、ブーシェ、ラ・トゥール、ヴェルネ、ドルーエ、ブーシャルドンなどで、モーツァルト少年もここで演奏をしたという。作者ナティエは当時の上流社会の貴婦人たちの庇護を背景に、彼女らを神話や寓意上の女神になぞらえて描き、いわゆる扮装肖像画の形式を流行させた。フランス王室にも迎えられ、ルイ15世の息女たちの御用画家としても活躍したが、後年になって厳正な審美眼に立つディドロから攻撃を受け、「紅白粉(べにおしろい)で絵を描いた」と非難された。しかし本作に見るように、彼がこの年代に描いた力作には、充実した様式美と繊細な感受性が溢れており、典雅なロココ趣味で女性を描く肖像画家として開花したナティエの才能を認めることができよう。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
デュフィとは?【 作家名 】 1877年フランスに生まれる。1953年没する。故郷ル・アーヴルの美術学校を経て、兵役をはさみ、パリのエコール・デ・ボザールに学ぶ。はじめは印象主義の影響を受けた作風で、サロンにも出品するが、1905年のアンデパンダン展で見たマティスの作品に影響されて、明るい色彩と軽快な筆使いによる作風へと転じる。セザンヌやキュビスムの影響を受けた時期もあるが、独特のリズミカルな画面を保ち、フォーヴィスムの一員と見なされる。1937年のパリ万博では、電気館のための壁画を制作、52年のベネチア・ヴィエンナーレでは国際絵画大賞を受けた。 |
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