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わかいふじんのしょうぞう 若い婦人の肖像
右を向いた四分の三正面の若い婦人の胸像である。楕円形の円窓の画面が女性らしい優しさを強調する形となっている。モデルは淡いピンクのパステル・トーンの服に身を包み、透明の紗のストライプ模様のサテンのスカーフを胸もとで結んでいる。紫と黄色の花のコサージュが見る者の目をひく。仄かにロココ調の香りを残すものの、この無名の市井の婦人を平明に描いた肖像画は、グルーズの様式に属するもので、18世紀後半の彼の工房の作と考えられている。グルーズは、ブルジョワジーの生活観と価値観のもとに、その風俗を感傷的な人物像に託して描いた画家で、絵の中に道徳的で教育的なメッセージや教訓をとり入れた風俗画を得意とした。このテーマ性は、啓蒙思想家ディドロに好感をもって迎えられ、彼によって「描かれた道徳」と讃美された。発想や様式は、18世紀前半のロココ絵画を平俗化したものであったが、道徳的色彩の薄い少女の肖像画などには、優れて絵画的な要素を見い出すことができる。しかし、大衆の趣向に迎合しようとした作風から、新古典主義へと移ってゆく趣味の変化とともに、その作品は時代遅れとなり、フランス革命後は長らく忘れ去られた存在であった。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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