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わかいふじんのしょうぞう 若い婦人の肖像
右を向いた四分の三正面の若い婦人の胸像である。楕円形の円窓の画面が女性らしい優しさを強調する形となっている。モデルは淡いピンクのパステル・トーンの服に身を包み、透明の紗のストライプ模様のサテンのスカーフを胸もとで結んでいる。紫と黄色の花のコサージュが見る者の目をひく。仄かにロココ調の香りを残すものの、この無名の市井の婦人を平明に描いた肖像画は、グルーズの様式に属するもので、18世紀後半の彼の工房の作と考えられている。グルーズは、ブルジョワジーの生活観と価値観のもとに、その風俗を感傷的な人物像に託して描いた画家で、絵の中に道徳的で教育的なメッセージや教訓をとり入れた風俗画を得意とした。このテーマ性は、啓蒙思想家ディドロに好感をもって迎えられ、彼によって「描かれた道徳」と讃美された。発想や様式は、18世紀前半のロココ絵画を平俗化したものであったが、道徳的色彩の薄い少女の肖像画などには、優れて絵画的な要素を見い出すことができる。しかし、大衆の趣向に迎合しようとした作風から、新古典主義へと移ってゆく趣味の変化とともに、その作品は時代遅れとなり、フランス革命後は長らく忘れ去られた存在であった。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
森田恒友とは?【 作家名 】 1881年埼玉県に生まれる。上京して小山正太郎の不同舎に入門。東京美術学校西洋画科にすすみ、卒業後進学していた研究科を1907年(明治40)やめ、石井柏亭、山本鼎らと同人雑誌「方才」を創刊する。また詩人北原白秋らとパンの会を起こす。同年開設された文展に入選。その後一時、秋田や大阪で教員や新聞社に就職するが再上京し、1914年(大正3)渡欧する。帰国後は、セザンヌやドーミエ、またキュビスムに影響された作品を発表する。翌年、二科会の会員になる一方、院展洋画部に出品し、翌年同人に推挙される。また同年、小川芋銭、川端龍子、小川千甕らとともに日本画家の団体珊瑚会を結成。しだいに水墨画家の活動もはじめる。1917年、院展に専念するため二科会を退会。1920年には院展同人とともに日本美術院を脱退、1922年春陽会を結成し、以後ここを中心に活動する。1932年(昭和7)食道癌のため入院し、翌年逝去。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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