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すいた そうぼく 吹田草牧
1890年大阪府に生まれる。本名憲一。従兄黒田重太郎の影響ではじめ洋画を志して関西美術院に入り鹿子木孟郎に学ぶ。1912年(明治45)上京して葵橋洋画研究所に学ぶが、再興院展などに刺激を受け日本画に転じる。1914年(大正3)京都にもどり入江波光の紹介で竹内栖鳳に入門、土田麦僊の指導を受ける。1918年第12回文展で〈山村に春近し〉が初入選する。同年国画創作協会が結成されると国展に毎回出品し、1924年には同会会友、26年に同会会員に推挙される。また1922年から翌年にかけて、菊地契月、入江波光らに同行して渡欧した。1928年(昭和3)国画創作協会日本画部の解散後は、同志と新樹社を結成するがまもなく解散した。1929年第10回帝展に〈嵐山〉を出品し、以後帝展に出品を続ける。戦後は日展には出品せず東京へ移住後は主に洋画を描いた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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