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おらんのあらぶじん オランのアラブ人
1835年のサロン出品作。ドラクロワが1832年の前半にモロッコとアルジェリアを訪れた北アフリカ旅行は、彼の芸術形成にとって貴重な体験であった。彼が目にした風景、人物、色彩などの異国のイメージの集積は、その後の作品におけるさまざまな素材となって再創造されることになる。リー・ジョンソンはカタログ・レゾネの中で、本作の構図はこの旅行中に描いた画帖のスケッチから採られたものと、次のように指摘している。「この構図はおそらく、ドラクロワが北アフリカのオランの城壁の外側で描いた淡彩(ウォッシュ)から得ていると思われる。ドラクロワは、タンジュールからアルジェへ船で向かう途中、1832年6月20日にそこへ立ち寄った。アラブ人のポーズや衣服、斜面の上に座る彼等の位置は、二つの作品(淡彩とこの油彩画)において同一であるが、右側のアラブ人は淡彩の中の人物よりずっと若く描かれ、傍らの持ち物にもわずかな差異が見られる。そして淡彩に描かれている背景の城壁が、本作では省略されている。」(『ウジェーヌ・ドラクロワの絵画』第3巻、作品番号357)ドラクロワはモロッコ北端の都市タンジュールから地中海を東へと航行し、アルジェリアの海岸線をオラン、アルジェと寄港し、その土地の風俗を描いたのであろう。アルジェリアは、1830年から1962年の独立までの132年間にわたりフランスの植民地であったが、当時フランス領となったばかりの新大陸の人々と風景は、ドラクロワの想像力と創作意欲を大いに刺激したに違いない。オランはアルジェに次いで大きな港町で、丘の上の旧市街に立つカスバ(城砦)やモスク、聖者の墓廟など、異国情緒に富んでいる。本作と同一構図の鉛筆による習作がウィーンのアルベルティーナ版画素描館にある。この構図をもとにして作られたエッチングの版画(左右逆の絵柄)も知られている。(A.ロボー『ウジェーヌ・ドラクロワの全作品』作品番号462)(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
バウハウスとは?【 美術用語 】 1920年代のドイツで近代デザインの中心地となった建築と応用美術のための学校。デザインと工業技術の間に橋をかける重要な役割をはたした。1933年にナチスの圧力で解散してから教授陣と学生が各地に移住したため、バウハウスの理念は多くの国々に広められ、1930年代と40年代における近代主義のシンボルともいえる存在となった。バウハウスの創設は、1919年に、旧ヴァイマール美術アカデミーとヴァイマール美術工芸学校がグロピウスによりひとつにまとめられたことに始まる。グロピウスの最初の思想は、すべてを包含する近代的で構成的な芸術を実現して、モニュメンタルな要素と装飾的な要素の分離をなくそうとするものであったが、さらに1923年には、工業的大量生産用のデザインを行う工芸家が重要であるとした。このため、バウハウスは産業界と密接に関係を持ち、多くの製品を生み出した。その特徴は非個人的で幾何学的で厳格なことであり、むだを省き素材を研究し、洗練された形を持っており、ヨーロッパの建築・応用美術に大きな影響を与えた。 |
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