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おとこのしょうぞう 男の肖像
幼い頃から絵の世界に興味を示したミレーは、1833年にシェルブールに赴き、ダヴィッド派の肖像画家ムシェルについて初めて絵を学んだ。2年後には、同じシェルブールの画家でグロの弟子ラングロワに師事。翌年には、ジェルブール市の奨学金を得てパリに行き、アカデミズムの画家ドラローシュのアトリエに入門した。しかし、ミレーはこうした教室での修業には馴染めず、もっぱらルーヴル美術館に通って模写をするという日々が続いたが、1840年、《ルフラン氏の肖像》でサロンに初入選を果たし、画家としてスタートをきることができた。26歳のときである。彼は肖像画家として身を立てるためにシェルブールに戻り、さっそく同市から依頼された前市長の肖像画を仕上げるものの、モデルの理想化を排したその作品のリアリズムに、市議会は受取りを拒否するという出来事もあった。職業画家としての成功と失敗の因子が交錯する中で、1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期すが、その成功はおぼつかないものであった。このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示している。画面左下に大きな文字で記された署名は、《ウィトル氏の肖像》(1945年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられる。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画のひとつである。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
藤田嗣治とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。1968年没する。(スイス、チューリヒ)。1910年東京美術学校西洋画科を卒業する。1913年フランスに渡り、ピカソやモディリアーニらと交友する。乳白色のなめらかな絵膚に線描する独自の画風を創り出し、1919年サロン・ドトンヌの会員、2年後に審査員に推挙されるなど、一躍エコール・ド・パリの寵児となる。1929年一時帰国したあと、1930年から33年にかけてパリを足場に中南米各地で制作、39年から40年にかけて再度フランスに渡る。その間1934年二科会会員、41年帝国芸術院会員となり、43年朝日文化賞を受賞する。戦後は1949年アメリカを経てフランスに渡り、55年フランスに帰化、57年レジオン・ドヌール勲章を受賞、59年ベルギー王立アカデミー会員となる。1959年カトリックの洗礼をうけてレオナルド・フジタと改名、晩年はフランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計、壁画制作に没頭する。(「ピカソと日本」図録 1990年) |
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