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さんみっしぇるきょう サン・ミッシェル橋
ユトリロは、パリのサン=タンヌ精神病院で、アルコール中毒の最初の治療を終えたばかりであった。母、シュザンヌ・ヴァラドンの住まいであったモンマルトルのコルトー通りで「アルコール中毒」の発作を起こしてから、入院は3カ月間に及んだ。独りになって、ユトリロはモンマニー(フランス、ヴァル・ドワーズ県)の母方の祖母の所に逃れ、漫画を模写して過ごし、やがてデッサンに時間を費やすようになり、そして母親のシュザンヌ・ヴァラドンのように絵筆を取る決心をした。ユトリロは、大芸術家を気取る、母のようになりたいと願っていた。彼はまず、田舎で絵を描き始め、そしてパリで描くようになた。しかし、モンマルトルの腕白小僧たちや野次馬の嘲笑の目から隠れるために、彼はひそかにセーヌ河岸へと逃れた。これが芸術家としてパリを眺めた、最初であった。シスレーの影響を受けて、ユトリロは印象派の手法で描き始めたが、それでも、その個性は失われてはいない。「いつか、みんなが僕のことを話しているのを、聞くようになるよ。ちょうど、シスレー、シスレー、シスレーを話すみたいに……」。居酒屋でユトリロは、なんども、ろれつの回らない口調で、赤ワインをおごられるたびに、こう話していた。ユトリロ自身、水は好きではないと認めていたにも拘わらず、彼は美しい海景画を1点、完成させたばかりであった。彼は黄緑、光沢のある色彩、テール・シエンナ(土色)に近い、カーマイン・レッド、エメラルド・グリーン、ウルトラマリン・ブルーといった色調の絵具を、白亜、亜鉛白、卵黄で出来た、緻密な原料を使って練り上げた。(S.K.)
カテゴリー:作品
石川欽一郎とは?【 作家名 】 1871年静岡県に生まれる。その後東京に移り、1888年逓信省東京電信学校に学ぶ。1889年大蔵省印刷局に入り、1891年に明治美術会に入会。浅井忠、川村清雄などに指導を受け、明治美術会解散後巴会に加わる。1905年に大下藤次郎を知り、『みづゑ』にアルフレッド・イーストの翻訳を掲載。1913年、日本水彩画会の創立に参加。1922年渡欧。1924年台湾に渡る。台北師範学校嘱託となり、台湾水彩画会を創立。台湾美術展の審査員などをつとめる。1932年帰国。その後日本水彩画会顧問となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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