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さんみっしぇるきょう サン・ミッシェル橋
ユトリロは、パリのサン=タンヌ精神病院で、アルコール中毒の最初の治療を終えたばかりであった。母、シュザンヌ・ヴァラドンの住まいであったモンマルトルのコルトー通りで「アルコール中毒」の発作を起こしてから、入院は3カ月間に及んだ。独りになって、ユトリロはモンマニー(フランス、ヴァル・ドワーズ県)の母方の祖母の所に逃れ、漫画を模写して過ごし、やがてデッサンに時間を費やすようになり、そして母親のシュザンヌ・ヴァラドンのように絵筆を取る決心をした。ユトリロは、大芸術家を気取る、母のようになりたいと願っていた。彼はまず、田舎で絵を描き始め、そしてパリで描くようになた。しかし、モンマルトルの腕白小僧たちや野次馬の嘲笑の目から隠れるために、彼はひそかにセーヌ河岸へと逃れた。これが芸術家としてパリを眺めた、最初であった。シスレーの影響を受けて、ユトリロは印象派の手法で描き始めたが、それでも、その個性は失われてはいない。「いつか、みんなが僕のことを話しているのを、聞くようになるよ。ちょうど、シスレー、シスレー、シスレーを話すみたいに……」。居酒屋でユトリロは、なんども、ろれつの回らない口調で、赤ワインをおごられるたびに、こう話していた。ユトリロ自身、水は好きではないと認めていたにも拘わらず、彼は美しい海景画を1点、完成させたばかりであった。彼は黄緑、光沢のある色彩、テール・シエンナ(土色)に近い、カーマイン・レッド、エメラルド・グリーン、ウルトラマリン・ブルーといった色調の絵具を、白亜、亜鉛白、卵黄で出来た、緻密な原料を使って練り上げた。(S.K.)
カテゴリー:作品
退廃芸術とは?【 美術用語 】 ナチスの芸術イデオロギーの標語。1933年にヒトラーが権力を握ると、それ以前のヴァイマール共和国時代に発展してきた表現主義やバウハウスなどの現代美術に「退廃芸術」の烙印を捺し、組織的に抑圧して行った。バウハウスは「文化的ボルシェビィズムの温床」として閉鎖され、現代美術運動に同調的な教師や美術館員は職を追われ、発言も封じられた。反面、運営・イデオロギーの両面で政府の統制下に置いたアカデミックな芸術を育成し、「退廃芸術」に対して「ドイツ芸術」と称した。1933年カールスルーエで開かれた「1918年から1933年までの公認美術」展を最初に、現代美術の面目を潰し愚弄しようとする展覧会が相次いで開かれるが、その頂点を成すのが、1937年ミュンヘンで開かれた「退廃芸術」展である。この展覧会のために全国から現代美術の作品が接収され、展覧会終了後、競売や画商を介して売られ、残りは1939年に焼かれた。 |
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