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さんみっしぇるきょう サン・ミッシェル橋
1907年から1908年にかけて、ユトリロの病気はすっかりよくなっていた。彼の芸術は初期の時代が終わりモンマニーの時代に入っていた。 それまでとは色調がまったく変わり、画面は入念に練り合わされた絵具で覆われるようになった。 ユトリロはその絵具によって色価を調和させた。絵具は拳で打ち付けたように画面上ではち切れている。そこでは白が主要な色になった。それはなんと美しい白であろうか。 建物の白い壁を見た通りに描こうとしてジンク・ホワイト(ユトリロは白にはこれだけしか使わなかった)では満足がいかないときは、ほかの色を混ぜるようになった。 レアリスムにのめり込んだユトリロは、古びた石を描くのにいろいろ工夫をこらしたあげく石の上の本物の苔を画面に張りつけることができたらいいのにと嘆いている。 このころがユトリロの最初の転換期であり、そのすぐ後に白の時代がやってくる。そこでは生の白が白亜のままではなく、画面に響く黒や褐色と対置された絹のような灰色、やわらかな薔薇色や深い青で包まれるようになった。(K.S.)
カテゴリー:作品
ドラートルとは?【 作家名 】 版画家で出版業者の父、オーギュスト・ドラートルの息子として生まれた彼は、当時の最も優れたグラフィック・アーティストたちの仕事ぶりを見ながら、家業をおぼえていった。彼は自分が住み、仕事をしていたモンマルトルという場所の土地柄と活気を好み、版画の制作に活かしている。1890年頃、日本の多色刷版画に刺激されて、多色刷エッチングを試みはじめた。ドラートルはとりわけマクシム・モーフラやリヒャルト・ランフト、スタンランらにエッチングを教え、19世紀末に数多くのオリジナル版画を印刷した。1896年、S・ビングのギャラリー「アール・ヌーヴォー」に13点の版画を出品したが、おそらく彼の日本美術コレクションはビングを通じて作り上げられたものと思われる。1899年、多色刷版画協会の一員となり、その年次展に出品された版画の多くを印刷した。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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