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さんみっしぇるきょう サン・ミッシェル橋
1907年から1908年にかけて、ユトリロの病気はすっかりよくなっていた。彼の芸術は初期の時代が終わりモンマニーの時代に入っていた。 それまでとは色調がまったく変わり、画面は入念に練り合わされた絵具で覆われるようになった。 ユトリロはその絵具によって色価を調和させた。絵具は拳で打ち付けたように画面上ではち切れている。そこでは白が主要な色になった。それはなんと美しい白であろうか。 建物の白い壁を見た通りに描こうとしてジンク・ホワイト(ユトリロは白にはこれだけしか使わなかった)では満足がいかないときは、ほかの色を混ぜるようになった。 レアリスムにのめり込んだユトリロは、古びた石を描くのにいろいろ工夫をこらしたあげく石の上の本物の苔を画面に張りつけることができたらいいのにと嘆いている。 このころがユトリロの最初の転換期であり、そのすぐ後に白の時代がやってくる。そこでは生の白が白亜のままではなく、画面に響く黒や褐色と対置された絹のような灰色、やわらかな薔薇色や深い青で包まれるようになった。(K.S.)
カテゴリー:作品
ミュシャとは?【 作家名 】 画家、イラストレーター、室内装飾家。チェコのイヴァンチツェ生まれ。1879年、ウィーンの舞台装飾会社で働き、夜間学校に通う。83年芸術庇護者のクーエン=ベラッシ伯爵に会い、城の食堂と書斎の室内装飾の仕事を依頼される。伯爵は以後、ミュシャのパトロンになる。ミュンヘンの美術学校を出た後、87年にパリに出て短期間アカデミー・ジュリアンに通う。それ以来、彼は絵画に主に専念することになる。90年より様々な雑誌、新聞に評論を寄せるようになる。92年より本のイラストを始める。並行してフランス芸術家協会(1894年)や第20回100人展に出品する。1896年、1897年には個展を開催する。1892年より広告の世界に入る。広告の世界で注目されるようになるのは94年からである。その後10年間、ミュシャの広告における業績は絶頂をきわめた。1903年、初めてアメリカへ旅し、パリとプラハ、ボヘミアを定期的に行き来するようになる。少しづつチェコ人としてのアイデンティティーを意識するようになり、1910年からスラブの芸術の人生を捧げる決意をした。(「黄金時代のポスター芸術」図録 1998年) |
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