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こるとーどおり もんまるとる コルトー通り、モンマルトル
ここはコルトー通り12番地で、シュザンヌ・ヴァラドンがポール・ムジスと住もうとやってきた所である。1911年にムジスと離婚したあと、ヴァラドンは同じ建物の中にあった“屋根裏部屋”と名づけられたエミール・ベルナールのアトリエを独りで使っている。そのアトリエは現在モンマルトル美術館にある。 この作品では、白く大きな塀に挟まれた人のいない通りが描かれており、塀をうまく配置できるように、向こうの建物に続く道を広めにしている。きれいな白とよごれた白が、分厚いざらついた塀にべったりと塗られている。ほかの壁はサーモン・ピンクや黄色、灰色、緑といった色のマチエールで塗り込められ、歌を奏でているが、そこでもさまざまな白が雄弁に振る舞っている。暗い赤は、傷んだ漆喰壁のしみを隠している。この絵の通りには、道路工事をしたり壁を修理する必要がある。そしてここは、ユトリロの人生に栄光と卑屈、喜びと苦しみをもたらすことになる道なのである。(K.S.)
カテゴリー:作品
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
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