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てるとるひろば テルトル広場
モーリス・ユトリロの全生涯は、最初から終わりまで、このテルトル広場によって示される。ユトリロはここで、サシャ・ギトリィの映画『パリ物語(もし、パリが私に語ってくれたなら)』の最後のシーンをにぎわした。 絵具を厚塗りにした筆触は、砂、石膏といった様々な材料の特質を生かしたマチエールを用いたためである。ユトリロは、非常に巧みに、冷徹なまでのレアリスムで、パレットナイフを用いて滑らかな表面を丁寧に仕上げた。空は、より冷たい色調の明暗を強調した筆触で、微妙なニュアンスが施されている。これらの筆触は作品の主要な部分を占めており、慎重に並べられている。 このすばらしい作品は、ホール・ペトリデスの『カタログ・レゾネ』(第1巻)では1910年頃の制作、と記載されている。しかし私の考えでは、この時期ではなく、もう少し後に制作された。ユトリロのほとんどの作品に基づけば、この署名は1912年から1913年頃のものということが分かる。A.タバランによれば、次のように説明されている(Editions Bernheim−Jeune,p.88)。 「ほとんどの場合、小さくて細い書体で、リボードが購入する息子の作品に署名をしていたのは、母のシュザンヌ・ヴァラドンであった。依頼したのはリボードで、なぜならば、ユトリロは、この点に関して注意を受けているのに、それを無視して、並外れて大きな文字で署名したからであった」
カテゴリー:作品
川上冬崖とは?【 作家名 】 1827年長野県に生まれる。江戸に出て大西椿年に学び岸太郎と称する。蕃書調書に入り、絵画取調出役、画学出役となって洋画法を研究し、後進を指導。明治維新後、大学南校(東京大学の前進)、文部省、陸軍兵学寮、陸軍参謀局に勤める。第1回、第2回内国勧業博覧会美術部の審査主任。1870年下谷に私塾聴香読画館を設けて青年たちに西洋画法を教える。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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