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こたんどおり コタン通り
モンマルトルの全ての精髄が、この通りにある。キュビスム様式の建物が、モンマルトルの丘の階段まで伸びた小路の両側を縁取っている。作品全体の見事な統一性と、定規を使った立体感、巨匠ユトリロはここでは、ジンク・ホワイトを加工し、穏やかで瞑想的な雰囲気の中に、白と黒を対置することで、色調に微妙な変化をつけている。(S.K.)
カテゴリー:作品
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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